Sam

ハワイにSamという友だちがいる。かれは飲食店の経営者で、それ以外にも、日本からの客人を観光案内する仕事をライフワークにしている。人生2度目のサーフィンを経験したのがハワイで、Samに道具をかりて、乗り方をおそわった。初めてボードに立てたのはかれのおかげだ。「でゔぃふじんもできたから、だいじょうぶだよ」いろんなひとにサーフィンをおしえているらしい。「しねばつちになってしぜんのいちぶになる、だからいきてるあいだにしぜんとなかよしになるほうがいい」わたしはSamを好きでいて、リスペクトしている。

あるときSamと一緒にホノルルの街中をあるいていたら、浮浪者とおぼしき男性がすわっていた。Samは、そのひとを見つけると、手にもっていたサンドイッチを手渡した。男性はニコッと笑いかえし、有り難そうに食べはじめる。そのシーンが印象にのこっている。

わたしには「ホームレス意識」ともいえる感覚がある。意識の初期設定がホームレス。なぜ自分が路上生活者でないのか、食べものや衣服や家がもたらされているのか、不思議になることがある。夢や幻のようで、奇妙なのである。この意識感覚はそれなりに真剣なもので、幼少期から変わらず、目の奥の方で平然と佇んでいる。

好きな映画はいくつもあるが、とりわけ気に入っているのが『レヴェナント』『キャストアウェイ』『ライオブパイ』で、どれも、生存をかけた自然との厳しい時間が描かれている。生きるとはこういうこと、すぐそこに死がある。飢餓に瀕して、日々を過ごす。これがわたしにはなぜかしっくりくるのである。

そんなわけで、わたしも、ホームレスや浮浪者を仲間というか、助けてあげたいタイプのひとたちに感じている。かれらがどういう事情でその生活をしはじめたのかは知らないが、わたしはかれらを怠惰だとか汚いとか、そういう風にはとらえられず、むしろハシゴをすこしだけ踏み外してしまった、ちょっとだけ運の悪いひとたちだと感じる。すれ違うときにはなんだかばつが悪い。本当に、たまたま、ラッキーがかさなって、紙一重のところでホームレスではない時間がわたしには用意された。そう強く感じるところがある。生まれる時代が100年遅かったり、またはもっと昔の時代に生まれていたりすれば、社会的に認められている存在だったかもしれない。そんな気がしてならない。

このあいだ、Samにひさしぶりに連絡をとろうとおもったら連絡先を知らないことがわかった。こちとら、ホームレスを仲間だと感じるくらいだ。メールアドレスを知らないくらいではなんてことはない。Samはハワイに住む友だち。ハシゴを踏み外してしまったら、かれのレストランの前で寝泊まりしようと思っている。