魚屋の大将

よく行く魚屋がある。いろんな魚を陳列しているので見ているだけで面白いのだが、どれも美味しくていつも感動している。たとえば「たかべ」の塩焼きは最高だった。

魚屋の大将は80代だと思われる。いつも立ち仕事、店頭で魚をさばいている。寡黙で口数は多くはないが、見るからに元気で健康そう。体さばきがしっかりしていて、とくに耳の良さは常人的でない。

日本人の食の好みが変わった。大将はそう言う。「いまは脂っこい魚が好まれる、昔はアカムツ(ノドグロ)よりクロムツだった」のだそうだ。「アブラボウズなんて私たちにとっては下魚だったんだよ、あんなの食べたらお腹壊すっていってね」「なにかきっかけがあったのですか?」「ハンバーグじゃないかと思う、肉汁で脂っこいでしょう、あれで日本人の感覚が変わったと思ってる」「大将の好きな魚はなんですか?」「わたしはやっぱりサワラだね、上品だよね」

美意識が強く、約束を守る。わたしは大将をリスペクトしていて、大事にしている。

Sam

ハワイにSamという友だちがいる。かれは飲食店の経営者で、それ以外にも、日本からの客人を観光案内する仕事をライフワークにしている。人生2度目のサーフィンを経験したのがハワイで、Samに道具をかりて、乗り方をおそわった。初めてボードに立てたのはかれのおかげだ。「でゔぃふじんもできたから、だいじょうぶだよ」いろんなひとにサーフィンをおしえているらしい。「しねばつちになってしぜんのいちぶになる、だからいきてるあいだにしぜんとなかよしになるほうがいい」わたしはSamを好きでいて、リスペクトしている。

あるときSamと一緒にホノルルの街中をあるいていたら、浮浪者とおぼしき男性がすわっていた。Samは、そのひとを見つけると、手にもっていたサンドイッチを手渡した。男性はニコッと笑いかえし、有り難そうに食べはじめる。そのシーンが印象にのこっている。

わたしには「ホームレス意識」ともいえる感覚がある。意識の初期設定がホームレス。なぜ自分が路上生活者でないのか、食べものや衣服や家がもたらされているのか、不思議になることがある。夢や幻のようで、奇妙なのである。この意識感覚はそれなりに真剣なもので、幼少期から変わらず、目の奥の方で平然と佇んでいる。

好きな映画はいくつもあるが、とりわけ気に入っているのが『レヴェナント』『キャストアウェイ』『ライオブパイ』で、どれも、生存をかけた自然との厳しい時間が描かれている。生きるとはこういうこと、すぐそこに死がある。飢餓に瀕して、日々を過ごす。これがわたしにはなぜかしっくりくるのである。

そんなわけで、わたしも、ホームレスや浮浪者を仲間というか、助けてあげたいタイプのひとたちに感じている。かれらがどういう事情でその生活をしはじめたのかは知らないが、わたしはかれらを怠惰だとか汚いとか、そういう風にはとらえられず、むしろハシゴをすこしだけ踏み外してしまった、ちょっとだけ運の悪いひとたちだと感じる。すれ違うときにはなんだかばつが悪い。本当に、たまたま、ラッキーがかさなって、紙一重のところでホームレスではない時間がわたしには用意された。そう強く感じるところがある。生まれる時代が100年遅かったり、またはもっと昔の時代に生まれていたりすれば、社会的に認められている存在だったかもしれない。そんな気がしてならない。

このあいだ、Samにひさしぶりに連絡をとろうとおもったら連絡先を知らないことがわかった。こちとら、ホームレスを仲間だと感じるくらいだ。メールアドレスを知らないくらいではなんてことはない。Samはハワイに住む友だち。ハシゴを踏み外してしまったら、かれのレストランの前で寝泊まりしようと思っている。

意識が変わる瞬間

とうの昔に引退しているが、バスケットボール選手だった友人(以下、X)が昔のことを語ってくれたことがある。

それはXが中学生の時のこと。当時から地区選抜されるエリート選手だったXは、チームの練習を見にきてくれたある実業団選手にアドバイスをもらったらしい。20年以上前の話なので今のようなプロリーグはなく「実業団」という社会人チームではあったのだが、その選手は名実ともに日本のトッププレイヤーで、中学生のXにとっては(それがわたしであったならば勿論わたしにとっても)憧れの選手だった。

「背中にも目をつけろ」Xはそう言われたのだという。当たり前だが、前を見ながらに後ろを見ることはできない。しかし、さも背中に目があるように、自分にとって死角になる背中側でおきていることを感じながら、イメージにいれながら、プレイすること。それからというもの、パスの配球や攻めの組み立てなど、Xのバスケットボールは劇的に変わったという。「死角なく、360度が視野にはいっている感覚」が彼のパフォーマンスを大きく変えたらしい。

人間の意識が変わるのは一瞬のことで、それ以前と以後とでは世界がまるっきり違ってしまうようなことがある。

昔から読書が好きだったが、ここのところ年間100冊のペースで読んでいる。せいぜい20冊程度しか読んでいなかった頃にくらべると読書スピードが格段に上がった。このような変化がおきたのは小飼弾著『本を遊ぶ』に出会ってからだ。中卒で大検をとり、カリフォルニア大学に入学するも実家の火事で大学を中退することになった伝説のブロガー小飼弾。かれの逸脱した能力は幼少期からつづく読書習慣に由来するという。

その小飼氏の『本を読んだら、自分を読め』の文庫本化における加筆修正版がこの『本を遊ぶ』。要するに、本を読んで知恵をつけろ、ということである。知恵がないひとたちが搾取される生活をおくっている。くだらないことに時間とカネをかけずに本を読め。簡潔な内容だ。

「おお、いいね」とおもったのだが、よくよく目を通してみると著者は年間5,000冊読むというのだ。500冊ではなく、5,000冊。この数字がよかった。これまで通りのやり方ではまるで真似できそうにない。根本的にすべてを変えなければ手出しができないその莫大な差がわたしには気持ちよかった。「ハハハ、マジかよ」とおもうと途端にエネルギーが煮えてくる。

身近な出来事であると同時に圧倒的な体験は、これまでみていた天井を軽々と突き破る。意識が変わる瞬間は、清々しくて気持ちいい。

自分と同じタイプの人間

最近ではもうあまりその手の事柄に興味がなくなったが、10年ほど前、ある著名な占い師に占ってもらったことがある。わたしは歌手やダンサーなど芸能人に多いタイプで、頭の回転が速くてひとの話を聞かない、腹が減ると途端に機嫌が悪くなってパフォーマンスが落ちる、肌と気管支の弱い、口が悪いけど親切な、直感タイプの人間だという。爆笑したのを覚えている。

聞くところによると、タイプじたいは168,000通り程度あるらしい。十数種類の世にある占いの掛け算と、これまでの経験からのパターン認識らしい。「あなたと同じようなひとにも会ったことがある」といっていた。

地球には8,230,000,000人が生きている。これを168,000で割ると、48,988人。この星に自分と同じタイプの人間はこれだけいる。日本には737人。